こんにちは、takaです。
どうやらお札のデザインが変わるみたいですね。
新しいお札の顔になるのは渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎の方達です。
お札になるくらいだから偉い人なんだろうとは思うものの、一体何をした人か知らないというそこのあなた!
今回の記事では、新一万円札に内定をもらった渋沢栄一に特化して記載していきます。
新紙幣刷新全体のことについては、魂を込めて作った下の記事を参考に!
五千円札の津田梅子についてはこちら
千円札の北里柴三郎についてはこちら
目次
新一万円札はいつから?
新一万円札は2024年の上期目処に、20年ぶりに刷新されます。
一万円札だけでなく、千円札・五千円札も併せて刷新されます。
新一万円札のデザイン
まずは旧一万円・新一万円の図柄の違いを見ていきましょう。
表(肖像) | 裏 | |
---|---|---|
旧一万円札 | 福澤諭吉 | 鳳凰像 |
新一万円札 | 渋沢栄一 | 東京駅(丸の内駅舎) |
紙幣の表の肖像は「福澤諭吉」から日本の資本主義の父である「渋沢栄一」に変更となりました。
そして、紙幣の裏は「鳳凰像」から「東京駅(丸の内駅舎)」に変更されました。
気になるデザインはこちら。
(出典:財務省ウェブサイト)
新一万円札は全体的に茶色で統一されています。
渋沢栄一とは?
それでは、2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、新一万円札の肖像に採用された「渋沢栄一」とはどんな人物なのか、何をした人なのか。
たくさんあるので1つずつ見ていきましょう。
生い立ち
渋沢栄一は1840年(天保11年)2月13日に武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)で、父である渋沢市郎右衛門と母のゑいの長男として生まれました。
tips!
血洗島(ちあらいじま)とは、なんと恐ろしい地名ですね。
地名の由来は、一説では、昔この付近で合戦があり、家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったためです。
土地の人がその手を近くに葬った墓を手墓と言う伝説もありました。
この渋沢家の家業は藍玉(あいだま)の製造・販売、養蚕で、栄一は幼い頃から手伝っていました。
tips!
藍は江戸時代、染料になるため重要な作物でした。
産地は徳島県(阿波藩)の吉野川流域が盛んでしたが、渋沢家があった深谷市の利根川沿いでも藍が栽培されていました。
一般的な農家とは異なり、藍を栽培している農家から藍を買い付け、藍玉を製造し、得意先の紺屋がある長野県や群馬県まで販売を行うため、算盤を弾く商業的な才覚が求めらていました。
幼い時のこのような経験が西洋の近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となりました。
また5歳の頃から父の市郎右衛門から漢籍の手ほどきを受け、7歳で隣村のいとこの尾高惇忠もとで論語をはじめ四書五経や『日本外史』を習いに通いました。
剣術も元川越藩剣術師範の大川平兵衛から神道無念流を学びました。
18歳の時、論語を学んだ尾高惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代と結婚しました。
tips!
江戸時代ごろまではいとこ同士の結婚は今ほど珍しいものではありませんでした。
現代においても、結婚ができないのは3親等までで、4親等にあたるいとことは結婚が可能です。
時代は倒幕思想!!
栄一は20代で倒幕思想を抱きました。
tips!
簡単に時代背景を説明するよ!知ってる人は読み飛ばしてね。
200年余り鎖国が続いていた江戸時代。
鎖国を続けられるということはすごいことで、いくら鎖国しますと勝手に宣言しても、武力を保持していないと外国に攻められてしまいます。
日本が鎖国を続けている間に、欧米列強では蒸気機関をはじめとした産業革命が起こり、多くのものを安価に大量生産できるようになりました。もちろん軍事力も飛躍的に上がりました。
生産したものを売るためにアフリカ・南米・アジアをどんどん植民地にしていきます。
日本と同じくらいの大きさの島国であるイギリスが大国である清(中国)をアヘン戦争で打ち負かすことができたのは産業革命のおかげであろう。
世界をほとんど植民地にしてきて、残っている国はアジアの極東に位置しずっと鎖国しているジャパンという国だけだ。
そこで我先にと、日本に開国させようとしたのが、そうペリー来航(1853年 栄一13歳の頃)です。
見て下さい、当時の日本人には黒船が怪物のように見えたのでしょうね。
徳川の江戸幕府は200年余り日本の天下を牛耳り、諸藩に参勤交代とかさせていたのだが、いざ黒船が来たら弱腰になり、日本にとって不平等な条約を外国と結んでしまいます。
このような状況で日本では大きく分けて2つの勢力が現れます。
①公武合体
「公武合体」派とは、幕府の権威を回復するため、京都の朝廷(公)の伝統的権威と、江戸の幕府(武)を結びつけて幕藩体制を再編し強化しようということです。
大老(今でいう総理大臣)の井伊直弼(いいなおすけ)はこの「公武合体」派で、「朝廷と連携し、幕府の信頼を取り戻す!公武合体党に一票を!!」といった政治スローガンを掲げていた感じですね。
②尊王攘夷
一方で、元々幕府の将軍は天皇の代わりに政治をしているだけの存在なので、改めて天皇を敬って、よくわからん外国など武力で滅ぼしてくれようというのが「尊王攘夷(そんのうじょうい)」です。
尊王攘夷はやがて、徳川幕府に任していては日本はダメだ、幕府を倒して新しい政権を作るぞという「倒幕思想」につながります。
「古い幕府体制はーーぶっ壊す!!👍 明治維新党に一票を!」みたいな感じですかね…
公武合体派の大老井伊直弼は、幕府の悪口を言う危険な思想家は処刑(安政の大獄)していきました。
この時に残念ながら長州(山口県萩市)の吉田松陰は処されてしまいました。
尊王攘夷派の反感を買い、井伊直弼は暗殺されます(桜田門外の変 1860年 栄一20歳の頃)。
どんどん幕府の力が弱くなり、徳川慶喜が徳川家最後の将軍となりますが、大政奉還(1867年 栄一27歳の頃)で幕府が「政(まつりごと)は朝廷に譲ります」つって江戸時代が終わり、明治時代になりました。
時代の流れが少しでもわかっていただければ幸いです!
話を栄一さんに戻します。
そのような激動の情勢の中で、栄一は倒幕思想を抱きます。
幕府に政治は任せていたら日本はダメになる。幕府を倒して、新しい政府が必要だ。
倒幕思想は尊王攘夷の延長線なので、外国人(夷人:いじん)を追い出す(攘う:はらう)こともします。
惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、倒幕のために「高崎城乗っ取り」を、攘夷のために「横浜外国人商館焼き討ち」を計画しました。
長七郎は京都での見聞からこの計画に反対し中止されることになります。
中止になったもののなかなか過激ですね。
その後京都へ向かい、一橋徳川家の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)との出会いから、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。
栄一24歳、徳川慶喜は28歳の頃でした。
倒幕思想なので幕府を「ぶっ壊す!!」と思っていた人が、幕府の頂点に立つ将軍になる一橋慶喜に仕えることになるとは、真逆の方向転換と見えますが、当時の人の心境は難しく、新撰組の近藤勇も同じように尊王攘夷派から幕府お抱えの警護団である新撰組に入っています。
思想や手段は違えど、日本を良くしたい・国難を乗り越えたいという気持ちはどちらも変わらないんですね。
見学パリ万博
農民の出である栄一は、一橋徳川家で「奥口番」と呼ばれる最下級の役職を与えられました。
しかし、財政難に陥っている一橋徳川家を再興するため財政再建策を進言し低い身分でありながら頭角を見せていきます。
1866年(栄一26歳の頃)に徳川慶喜は、江戸幕府15代将軍に就任しました。
そして、将軍慶喜は、欧州、フランスでの「パリ万国博覧会」に、使節団の派遣を決定し、日本の代表者である自分の名代として弟の「徳川昭武」(とくがわあきたけ)を抜擢しました。その随員として会計を得意とする栄一も指名されました。
これが栄一にとって人生の大きな分岐点となりました。
欧米列強での体験・見地が、今後の日本の近代化の原動力となりました。
それにしても、この時代に名を残す人は大概海外に留学とかしていますね。新5000円札の津田梅子はアメリカへ、新1000円札の北里柴三郎も留学しコッホに師事を受けていましたね。
一方で徳川慶喜は大政奉還を行い、政治の実権を朝廷に返上しました。
その後、新政府軍と旧幕府軍の戦いである「戊辰戦争」(ぼしんせんそう 1868年)が起こりました。
戊辰戦争の緒戦である「鳥羽・伏見の戦い」では徳川慶喜の旧幕府軍側は、「朝敵」にされ新政府軍に敗れました。
tips!
日本の千年以上の歴史で唯一不変なことは、日本国の象徴である天皇への敬意です。
全世界で千年も家計が記録され継続している王朝は、イギリス王室と日本の天皇くらいでしょう。
中国3千年の歴史という言葉がありますが、中国は前の王朝を滅ぼして新しい王朝が生まれているので、日本の天皇制とは根本的に異なります。
平安時代の藤原頼通や戦国時代の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などが日本で天下を取る際、「天皇を倒し自分が天皇に代わる」なんてことはしません。
あくまでも天皇は維持し、天皇の代わりに政治を行うという方法をとります。
これは、背景に日本国民の天皇への尊敬があるためなんですね。
徳川慶喜も幼い頃から、徳川よりも天皇を敬うように教育されてきたのですが、その本人が朝敵(朝廷の敵 = 天皇の敵)とされ、その落胆は計り知れないものでしょう。
tips!
天皇の軍隊の旗を「錦の御旗」と言います。
鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍がこの錦の御旗を掲げたため、旧幕府軍は「このままでは朝敵になってしまう」ということで士気は大幅に低下しました。
静岡藩の財政を立て直す
パリ万博から帰った時、徳川慶喜は静岡で謹慎していました。
そんな徳川慶喜に
同志、井上馨
第一国立銀行の設立
関与した会社は八百万
一橋慶喜の弟徳川昭武
1887年 明治20年 47 わが国初の機械式煉瓦製造となる日本煉瓦製造会社(深谷市上敷免)を設立する。