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【わかりやすく解説】新千円札はいつから変わるのか?新千円札の人物、北里柴三郎は何をした人?生まれから業績まで徹底解説!

こんにちは、takaです。

どうやらお札のデザインが変わるみたいですね。

新しいお札の顔になるのは渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎の方達です。

お札になるくらいだから偉い人なんだろうとは思うものの、一体何をした人か知らないというそこのあなた!

今回の記事では、新千円札に内定をもらった北里柴三郎に特化して記載していきます。

新紙幣刷新全体のことについては、魂を込めて作った下の記事を参考に!

五千円札の津田梅子についてはこちら

渋沢栄一記事は執筆中です、しばしお待ちを。

新千円札はいつから?

新千円札は2024年の上期目処に、20年ぶりに刷新されます。

千円札だけでなく、一万円札・五千円札も併せて刷新されます。

新千円札のデザイン

まずは旧千円・新千円の図柄の違いを見ていきましょう。

表(肖像)
五千円札 野口英世 富士山と桜
五千円札 北里柴三郎 富嶽三十六景 ※

※富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」(葛飾北斎)

紙幣の表の肖像は「野口英世」から近代医学の父である「北里柴三郎」に変更となりました。
そして、紙幣の裏は「富士山と桜」から「富嶽三十六景」に変更されました。

気になるデザインはこちら。

新千円札の表側

新千円札の裏側

(出典:財務省ウェブサイト

新千円札は全体的に青色で統一されています。

裏側の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の圧倒的な波と富士山はかっこいいですね。

北里柴三郎とは?

それでは、新千円札の肖像に採用された「北里柴三郎」とはどんな人物なのか、何をした人なのかを見ていきましょう。

生い立ち

熊本県阿蘇郡小国町
柴三郎は1853年、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)に生まれました。

小国町には北里柴三郎記念館があるので、これを機に遊びに行ってもいいかもです。

住所:熊本県阿蘇郡小国町北里371-1
TEL:0967-46-5560

代々床屋をやっている家に生まれました。

父の北里惟保(きたざとこれのぶ)は温厚で几帳面な性格でした。
母は柴三郎への教育には甘えを許さず、親戚に預け厳しく指導をしてもらいました。

名門源氏の家系です。

武士になることを夢見て、武道を志していましたが、明治維新により、時代の流れで藩校時習館(武士の学校)が廃止になります。

柴三郎、医学部へ入るってよ

北里柴三郎、医学部に入る

武士になる夢を絶たれた後、1871年、18歳で熊本医学校に入学しました。

そこでオランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの指導を受け、医学の道を志すようになります。
マンスフェルトから特別に語学を教わり、短期間で習得し、マンスフェルトの通訳を務めるようになりました。

そして1875年、柴三郎が23歳の時に上京し、東京医学校(東京大学医学部)に入学し医者への道を進みました。

東京医学校時代、教授の論文に口を出していたので、大学側と仲が悪く、何度も留年していたようです。

東京医学校在学中の学生集会の演説原稿『医道論』の中には、「人民に摂生保健の方法を教え体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐこと」と記されており、医学の基本は予防にあると考えるようになりました。

また、柴三郎は、「研究は目的の如何に関わらず、実際に役立つ医療・予防の上に結実されるべき」とし、病気の診断や治療に役立つ研究に注力しました。

留学

ベルリン・フンボルト大学

東京医学校を卒業した後、厚生労働省の前身である内務省衛生局に就職し、1886年にドイツのベルリン大学に留学しました

ドイツでは病原微生物学研究の第一人者、ロベルト・コッホに師事して研究に勤しみました。

tips!

ロベルト・コッホは当時は細菌学の第一人者であり、パスツールとともに「近代細菌学の開祖」とされていました。

それまで病気の原因というのは全く分かっておらず、治療とは経験的あるいは迷信的な方法が行われていました。
しかし、コッホとパスツールは病気の原因として「細菌」という微生物の存在を初めて明らかにしました!

1908年に来日したときは、明治天皇、森鴎外、北里柴三郎などから国家的歓待を受けました。

世界的快挙!!破傷風菌抗毒素の発見!!

破傷風

破傷風(wikipedia)より 破傷風による筋肉の発作で苦しむ人の絵(1809年チャールズ・ベル作)。最悪の場合背骨が折れることもある。

1889年に世界で初めて破傷風菌のみを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功し、翌年の1890年には破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見しました

tips!

破傷風(はしょうふう)とは、世界中の土壌中に生息する嫌気性生物(酸素があると増えることができない)である破傷風菌 (Clostridium Tetani) が、傷口から体内に侵入することで感染を起こします。
この破傷風菌は毒性が極めて強く、世界最強の毒素の一つとして知られています。

古来より、筋肉痙攣を起こし、死に至る病として認識されていました。

現在の先進国では、三種混合ワクチンの普及により発症数が少ないですが、発展途上国では数十万〜100万程度の死亡数が推定されており、その大多数が乳幼児です。特に、新生児のへその緒の不衛生な切断による新生児破傷風が大多数を占めます。

かかった人の約30%が死亡する病気でした。

(参考)コロナは2021年11月28日現在、173万人かかり、死亡者が18,000人なので、致死率が0.01%ですね。
コロナと比べると破傷風がいかに凶悪なのかがわかります。

さらに快挙!!血清療法の開発!!

血清療法

柴三郎はさらに、革新的な「血清療法」というものを開発します。

血清療法とは、毒素を無毒・弱毒化して少量ずつ注射すると、体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になる手法です。

伝染病に対する有効な原因療法が存在しなかった当時、治癒ができる療法はまさに画期的でした。

この血清療法は破傷風菌にとどまらず、ジフテリアという感染症にも応用ができます。

tips!

ジフテリアは、かかった人の約5~10%が死亡する凶悪な感染症です。

現在、乳幼児期が受けている三種混合はこのジフテリアと先ほどの破傷風百日せきの免疫をつけます。

柴三郎はジフテリアの純粋培養に成功したエミール・フォン・ベーリングと連名の論文『動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について』を発表しました。

この功績で第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がりましたが、共同研究者のベーリングのみが受賞しました。

この一連の多大な功績により、柴三郎は、国際的に有名な研究者となりました。

ドイツでは外国人として初めてプロフェッソル(大博士)の称号を授与されるなど、実績は華々しいもので、イギリスのケンブリッジ大学やアメリカの複数の大学からも好条件で招かれたが、国費での留学を許してくれた祖国である日本に帰り、感染症と闘うことで恩義に報いたいという気持ちが強く、勧誘を断り帰国となりました。

帰国後の日本での冷遇

帰国後の苦悩
柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の原因を病原菌とする緒方正規の脚気病原菌説に対し否定し批判しました。

tips!

緒方正規は、柴三郎と同郷で熊本医学校時代は同期でしたが、3年早く東京医学校に入ったので柴三郎が卒業した時には、内務省衛生局では上司の立場になっていました。
また、柴三郎のドイツ留学はこの緒方正規の計らいによりものなので、かつての恩人の主張を批判する形となっています。

緒方正規は東大教授にもなっています。

脚気については結果的には柴三郎の主張が正しいのですが、証明されたのは後世になってからです。

柴三郎の上司である緒方正規を批判したため、「恩知らず」の烙印を押され、東大と対立することになります。
さらに、東大と対立するということは研究者人生も危ういということも意味します。

そんな中で1892年に帰国しました。

世界的に注目を浴びた柴三郎は、世界の研究所からの数々の勧誘を断り、日本のために帰国しましたが、日本では東大の根回しにより、柴三郎を受け入れる研究所はありませんでした。
学界に強大な権限と人脈を持つ東大を恐れて援助する者は誰もいませんでした。

本当にもったいないことをしている日本です。

手を差し伸べたのは?

福澤諭吉

孤立無援状態の柴三郎に手を差し伸べたのは、福澤諭吉です。

福澤諭吉は海外で画期的な快挙を成し遂げたのにもかかわらず、それに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いて、全面協力と私財を投じた多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に、「私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所の前身で1899年に国立伝染病研究所となる)」を芝公園内に設立しました。

あとでわかったことだが、福澤諭吉が用意した土地は、自分の子女の将来のために用意していたものでした。

柴三郎は初代所長として伝染病予防と細菌学の研究に取り組みました。

私立伝染病研究所は日本で最初の結核治療専門病院であり結核予防と治療に尽力しました。

1893年(明治26年)、芝公園の伝染病研究所は手狭になったので、東京府知事より芝区愛宕町の内務省の用地を払い下げてもらい、そこに研究所を移転しました。

しかし、東大初代総長である渡辺洪基とその地域に住む近隣住民たちは、その移転を妨害しました。

伝染病研究所の反対運動を起こし、柴三郎のやってる研究がひどく危険で人体に有害なものであるかを声高に叫んで、研究を中止させようとしました。

福沢諭吉は伝染病研究所の近くに次男の捨次郎の住居を新築して住まわせ、「北里の研究は安全です。私の次男が近くに住んでいます。近隣住民の心配はご無用です」と言って、反対運動を静めました。

福沢諭吉はこのように情熱がある人物を全力で支援していたのですね、知りませんでした。

帝国議会では衆議院議員の長谷川泰らが中心となり、180人の議員連名で、国が北里の伝染病研究所を財政支援すべきだ、とする声が上がり、国は補助金を伝染病研究所に出して支援し、同所の運営はようやく軌道に乗りました。

ペストの調査 in 香港

1894年(明治27年)、柴三郎はペストの蔓延していた香港に政府・内務省から調査研究するように派遣されました。

tips!

ペストとは、人類の歴史上最も致死率の高かった伝染病であり、1347年から1353年にかけて流行した際にはヨーロッパの全人口の約3分の1が死滅しました。

そこで、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げました。

同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、不運にもペストにかかってしまった。

ペスト菌を発見した柴三郎をさぞ妬ましく思ったことでしょう。

この時、柴三郎の発見したペスト菌がニセモノであるとで批判しています。

東大の闇

1899年(明治32年)、「私立伝染病研究所」は、国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」となりました。

伝染病研究所は研究員が増え、業務範囲もどんどん増えていきました。

国立になって5年後の1914年(大正3年)、政府は所長の柴三郎に相談もなく、管轄を文部省に移管しました。

これは、伝染病研究所が東大の下部組織にするということです。

伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、柴三郎はこの決定に猛反発し、すぐに所長を辞任しました。

志賀潔をはじめとする優秀な研究所の職員全員も一斉に辞表を提出しました。

北里研究所

北里研究所

伝染病研究所を辞任した柴三郎は、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所。北里大学の母体)を設立しました。

そこで狂犬病やインフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発を続けました。

自身の研究のみならず、後進の指導にも熱心に取り組んだ柴三郎は、伝染病研究所から北里研究所時代で過ごした40年あまりの研究生活の中で、
ハブ毒の血清療法を確立した北島多一、赤痢菌発見者の志賀潔、サルヴァルサン(梅毒の特効薬)を創製した秦佐八郎、寄生虫が媒介する病気の研究で業績をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究で有名な野口英世などの多くの優秀な弟子を輩出しています

北里研究所はヨーロッパの大研究所にも比肩する研究所となりました。

「感染症学の巨星」北里柴三郎

恩人の福澤諭吉の没後14年目にあたる1916年(大正5年)、柴三郎は慶應義塾大学の鎌田塾長から、医学科を新設したいとの相談を受け、即座に賛成しました。「福澤先生から受けた恩顧に報いるのは、この時である」と、設立委員会の中心となりなりました。

そして、柴三郎は終生無給で慶應義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)の初代科長、病院長に就任し福澤諭吉の恩に報いました。

明治・大正時代という日本の近代医学の黎明期に予防医学の礎を築いた北里柴三郎は、1931年6月13日、78歳の生涯を閉じました。

しかし、柴三郎が抱き続けた「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という予防医学への思い、その実現のためには情熱を持って研究に取り組まなければならないという信念は、今なお深く息づいています。

まとめ

いかがでしたか?

破傷風・ペストなどの治療法を開発し、感染症学の巨星と呼ばれた北里柴三郎は、北里研究所で数多くの優秀な弟子を輩出しました。

やっぱり、かっこいいですね!

2024年に新紙幣の流通が開始されたら、お世話になりますのでよろしくお願いいたします。