こんにちは、takaです。
麻生財務相が2019年4月9日午前会見で、新紙幣のデザインを発表しました。
新しいお札の顔になるのは渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎の方達です。
お札になるくらいだから偉い人なんだろうとは思うものの、一体何をした人か知らないというそこのあなた!
今回の記事では、新五千円札に内定をもらった津田梅子に特化して記載していきます。
新紙幣刷新全体のことについては、魂を込めて作った下の記事を参考に!
新千円札の北里柴三郎についてはこちらをどうぞ!
渋沢栄一の記事は執筆中です、しばしお待ちを。
目次
新五千円札はいつから?
新五千円札は2024年の上期目処に、20年ぶりに刷新されます。
五千円札だけでなく、一万円札・千円札も併せて刷新されます。
新五千円札のデザイン
まずは旧五千円・新五千円の図柄の違いを見ていきましょう。
表(肖像) | 裏 | |
---|---|---|
旧五千円札 | 樋口一様 | 燕子花図 |
新五千円札 | 津田梅子 | フジ(藤) |
紙幣の表の肖像は「樋口一葉」から女子教育の先駆者である「津田梅子」に変更となりました。
そして、紙幣の裏は「燕子花図」から「フジ(藤)」に変更されました。
気になるデザインはこちら。
(出典:財務省ウェブサイト)
新五千円札は全体的に紫色で統一されています。
裏側のフジ(藤)も紫色ですね。
津田梅子とは?
それでは、新五千円札の肖像に採用された「津田梅子」とはどんな人物なのか、何をした人なのかを見ていきましょう。
生い立ち
津田梅子は1864年(元治元年)12月31日に、元佐倉藩の藩士で農学者津田 仙(つだせん)の子として江戸(東京)の御徒町で生まれました。
明治が1868年からなのでまさに幕末から激動の時代を生き抜いた人物です。
当初の名前は「むめ(うめ)」。明治35年(1902年)、38歳の頃に梅子と漢字表記に改めました。
tips!
父親の津田 仙は先進的な考え方の持ち主と言われていました。仙は子どものころから英語やオランダ語を学び、幕府に通訳として仕えていました。
梅子の人生に大きな影響を与えた父親 仙の判断
梅子の父親の津田仙が属していた佐倉藩(千葉県佐倉市)の藩主 堀田正睦(ほったまさよし)は、開国派で「オランダかぶれ」と噂されるほど西洋的なものを積極的に導入していました。
そのため仙は、西洋に非常に大きな関心を持っていました。
1853年、ペリー提督率いる黒船を直接目にしたことで決定的になりました。その時仙は15歳であった。
17歳の仙は、当時江戸湾警護のための砲兵隊に配属されます。
tips!
当時、日本と同じく小さな島国であるイギリスが、古来より交流があり、大国であった中国(当時 清)をアヘン戦争で圧倒したことには産業革命が背景にあります。
列強諸国がアフリカ・南アメリカ・インド・中国と植民地を増やしていき、アジアの東側に位置する台湾も植民地としました。台湾よりもさらに東にあり、200年余り鎖国していた未開の地「ジャパン」を、アメリカか?イギリスか?フランスか?オランダか?誰が先に植民地とするか、当時の日本はそんな危機的状況に置かれていました。
西洋文明の象徴ともいえる黒船のインパクトは、若い仙にとって凄まじいものでした。またその圧倒的な技術力の差に対する危機感は絶大であったと言えます。
仙は藩命で江戸に出てオランダ語を学びました。その後、横浜に行き、英国人の医師のもとで英語を学びました。
1867年、彼のこうした努力が認められ、当時幕府がアメリカに使節を派遣するときの随員に選ばれました。この使節には福澤諭吉も随行しています。
この時に仙はアメリカの農業やアメリカの女性の教育レベルや地位の高さを目の当たりにしています。
tips!
1848年、仙が渡米する約20年前に日本に先駆けてアメリカでは男女平等の市民権をもとめる運動(フェミニズム運動)が行われていました。
その後、北海道開拓使の嘱託となった仙は、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆(後の内閣総理大臣)など政府の要人と知遇を得ることになります。
黒田清隆が政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘の梅子を応募しました。
梅子の人生は、父の仙によって大きく舵をきられます。
岩倉使節団
岩倉使節団の目的は各国との友好親善、および欧米先進国の文物視察であったが、不平等条約の改正も担っていた。
- 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する
- 江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉
- 西洋文明の調査
岩倉使節団は岩倉具視を特命全権大使とし、伊藤博文、木戸孝允や大久保利通といった政府の首脳も同行しています。
tips!
岩倉具視は500円札、伊藤博文は1,000円札になったことがあるね!
梅子は「開拓使派遣留学生」の一員として11年間ものアメリカ滞在を計画していました。
他の男子学生が2年で帰国しているなか、女子学生だけ10年も滞在した背景には、北海道の開拓を行っていた黒田清隆による尽力があったからだと言われています。
帰国した黒田が女子教育の重要性を政府に説き、女子留学生の派遣が政府によって許可されたというわけです。
女子留学生の留学費用は、政府ではなく黒田の北海道開拓使から支払われています。
当時、仙が北海道開拓使で働いていたため、黒田の女子留学生派遣計画の情報はすぐさまキャッチできていたと考えられます。
留学
1871年(明治4年)梅子がわずか6歳のときに、北海道開拓使が募集した最初の女子留学生の一人として岩倉使節団(いわくらしせつだん)に加わり、親元を離れアメリカへ行きました。
出発前に皇居に呼ばれました。それほど岩倉使節団は期待されていたということです。
当時、日本からアメリカに渡る交通手段は船のみ。梅子は「蒸気船アメリカ号」で約1ヶ月かけてサンフランシスコに到着しました。
このときの女子留学生は5人でしたが、最年少は梅子で、英語の単語を2、3語ほど知っている程度でした。
ランマン夫妻
アメリカでは梅子は首都ワシントン近郊、ジョージタウンのランマン夫妻に預けられました。
英語を流ちょうには話せない6歳の梅子はどんなに心細かったことでしょう。
しかし夫妻は日本人の梅子に対しても普通親が子供に与えうるあらゆるものを与え、11年間梅子を見守りました。
留学から2年後の1873年、梅子が8歳のとき、キリスト教の洗礼を受けたいと申し出ました。夫妻が説得したわけでもなかったので、夫妻の感動はひとしおであったと言う。
梅子は、フィラデルフィア近郊の教会で洗礼を受けたあと、初等教育を終え、8歳からは私立の女学校でフランス語やラテン語を学びます。
梅子はランマン夫人や周囲のアメリカ女性の姿を見ながら、アメリカ女性は聖書から道徳を学んでいることを発見する。
アメリカ人女性のような立派な女性になることが、主要な留学目的だったことを考えれば、梅子がキリスト教徒になろうとしたのは、自然の成り行きだったであろう。
幼心のうちに女子留学の使命感がはっきりと意識されていたのである。
その後4回アメリカやイギリスに渡ります。
アメリカで小学校を終え、女学校にも進み、フランス語やラテン語、数学、物理学、天文学などを学び、11年の間アメリカの家庭で育ちました。
留学の中で、女性が自立するには専門的な知識を学ぶ必要があると考えます。
帰国後の苦悩
1881年(明治14年)北海道開拓使から帰国の命令を受けたが、本人の希望でさらに滞在を1年延期します。
そして1882年の7月、17歳になった梅子が計11年間のアメリカ生活終え帰国しました。
滞在延期の1年の間に、開拓使は資産払い下げにまつわる不正スキャンダルを起こし、解散してしまっていました。
つまり、女子留学を計画した役所そのものが消滅したのである。
夢をふくらませながら帰国した梅子は、たちまち落胆と焦燥の日々を過ごすことになります。
1年間もアメリカで暮らし、英語が堪能でも日本語が不自由な梅子。
男子留学生は2、3年の修学で帰国後かなりのポストを与えられ、将来が保証されていましたが、梅子には政府や開拓使から仕事が与えられることはありませんでした。
父親の仕事や家事を手伝いながら、梅子は悶々とした日々を過ごしていました。
明治15年の日本といえば、ようやく日本銀行券が発行されたころ。
女性の社会進出どころか、内閣制度がスタートするなど、近代国家としての基盤作りの段階にありました。
日本社会における女性のあり方そのものが、梅子の落胆に拍車をかけました。
日本社会は女性に教養を求めていない。女性たち自身も、「男性からましな扱いを受けることなど期待しておらず、自分たちは劣っていると感じ、向上しようなどとは全く思っていない」と日本女性の立場に憤りの手紙をランマン夫人宛の手紙に書いています。
「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない」と梅子は述べています。
帰国後にランマン夫人に送った手紙によると、梅子は自分のことを「移植された木」と表現しています。
また梅子は、アメリカの女性と日本の女性の地位の差にも驚きました。当時の日本人女性は、高等教育を受けることはできません。
梅子と一緒に留学した女子留学生の二人は、早々に結婚。のちに、梅子も何度か縁談をすすめられましたが、「話を聞くだけでもうんざりです」と断って一生結婚をしないと誓ったそうです。
帰国した梅子は、教養ある女性を必要としない日本社会に落胆する。自ら向上しようとしない日本女性に怒りすら覚えた。梅子は、日本女性の地位の向上のために女子教育の必要性を痛感する。
ピューリタンの家庭で10年以上の長期に渡って育てられた梅子にとって、勤勉と奉仕は一つの義務である。
国のお金で、アメリカの一流の学校に学んだのである。
それを日本の発展のために役立てなければならない。
律儀な梅子はこうした頑ななまでの義務感と使命感を持っていたのである。
華族女学校での教鞭と再留学
梅子は岩倉使節団でもお世話になった伊藤博文の家の家庭教師を経て、1885年(明治18年)に「華族女学校」の英語教師に就任します。
華族女学校(のちの学習院女子大学)は華族の女子に本格的な学びを提供する場所です。
しかし、梅子はふたたびアメリカへ留学することを夢見ます。
tips!
華族とは1947年まで存在した貴族階級のことです。
当時は日本でも留学制度がしっかりと定められるようになり、男子学生であっても簡単には留学できない時代になっていました。
女性の梅子が留学することは非常に困難でしたが、留学時代のアメリカの友人の助力により、授業料の免除等を勝ち取り、華族女学校に在籍したまま渡米することが認められます。
期間は2年間。1889年(明治22年)、梅子が24歳の時、再度アメリカに渡ります。
アメリカに渡った梅子はブリンマー大学に入学します。
ブリンマー大学では梅子は生物学を学びました。
ブリンマー大学在学中、梅子は「日本婦人米国奨学金制度」を設立しました。自分のように学びたい女性の助けになればと考えたのです。
資金集めのため公演や募金活動を行い、2度目の留学から帰国したのは1892年(明治25年)のこと。
ふたたび華族女学校に勤め、明治女学院でも教壇に立ちます。
その後も二回、アメリカやイギリスに留学しました。
1894年には梅子が執筆した「蛙の卵の発生について」の論文が学術雑誌に掲載されています。
また、人に物事を教える「教授法」についてはオゴウィゴー師範学校で学びました。
女子教育の必要性
4度の留学で、質の高い教育を受けて、「女性の地位向上のためには専門的な知識、学問が必要不可欠だ」と教育の重要性を再認識しました。
女性は男性のおもちゃ、召使いにすぎない日本の女性の地位向上のため、教育が不可欠。
女子教育に向けられた情熱は、一教師としての立場の限界を感ずるにつれ、女性のための学校建設に向かうようになります。
男性の考える女子教育ではなく、女性が主導する女性のための女子教育。
しかし梅子の目指した女性の立場は、当世流行のフェミニズムとは、一線を画するものである。女性の権利を主張し、要求する前に、女性が自らを高めなければならないというのが梅子の信念である。闇雲に権利を主張する女性は、逆に女性の尊厳を損なうことになる。梅子が目指していた女性像は、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力がある、それ故に家庭では夫から尊敬され、社会から必要とされる女性であった。
女子英学塾
1900年(明治33年)、梅子が35歳の時、女子英学塾(後の津田塾大学)が創立され、私立学校令に基づき正式に認可を受けました。
女子英学塾はこれまでのお行儀作法の延長のような学校ではなく、少人数方式のレベルが高い教育を目指した学校です。
初年度の入学者は日本全国から集まった10名の女性。
女性たちは英語を学び、英語教師を目指しました。
共に留学した仲間が、帰国後次々に結婚し、古い日本社会の慣習の中に埋もれていく一方で、梅子は一人頑なに自らの使命に忠実に生きようとしました。
結婚という女性の一般的生き方に抗い、日本女性の地位向上のため、その教育のために献身しました。
そして、日本の女子教育の先駆者としてその名を残すことになりました。
1929年8月16日没。
津田梅子の残した功績と名言エピソード
女性の地位の向上、女性の自立を追求し続けた梅子。彼女が残した津田塾大学は今なおその理念を受け継ぎ、「英語教育」「少人数教育」「留学・国際交流」の三つの理念を掲げています。
学校を開いた時「all – round women.」と挨拶しました。
女子英学塾は英語を学ぶ学校でしたが、英語の習得のみならずあらゆることに能力を発揮する視野の広い円満な女性であるようにとの思いが込められた言葉です。
視野を広く持って学ぶこと。そして一人の人間として自立して生きること。
苦労と困惑を繰り返しながら、女性の地位向上のために奮闘した梅子が人生を通じて表現したことは、将来のために何をすべきかと考えるとき、きっと役に立つはずです。
まとめ
いかがでしたが。
女性の地位向上のためには、ただ闇雲に女性に権利を!と叫ぶのではなく、女性自身が聡明になることが重要で、そのために女性による、女性のための教育が必要だ。津田梅子は女子英学塾でそれを実現し、女性の地位向上のために奮闘した人だったのですね。
最近のディズニープリンセスに出てくるような強い女性である津田梅子。
2024年に新紙幣の流通が開始されたら、お世話になりますのでよろしくお願いいたします。